2016年12月30日

僕らの責任

そう、彼らは言葉を話すことができないんだ。
僕らがそうしてあげなければ、彼らの意思で何かを選択することはできない。
彼らの全ては僕らが握っている。

ちょっとくらい痛くても我慢できるだろう。
少しの辛抱だから、我慢して。
少しくらい痛くたって痛みに強いでしょう。
そんなに鳴くなんてなんて大げさな。
ブルブル震えちゃって、そんなに怖くないでしょう。
別にとって食われるわけじゃないんだから。
頑張れ、頑張れ。

自分の痛みを訴えることができたらどんなにいいだろう。
自分の怖さを伝えることができたら、叫ぶことができたら、泣きわめくことができたら。
でも、彼らにはそれができない。
黙ってじっと耐えるしかない。

人がもっと気遣ってあげなくちゃ。
考えうる最も痛みの少ない方法を選択してあげなければ。
痛みを、恐れを、怖さを、不安を、僕らがわかってあげなければ。

いらなくなったらポイ捨てだって?
ふざけんじゃない。
かれらの心の痛みををわかってあげてほしい。

心から愛して、心から大切にしてあげてください。
自分たちはそう思ってないかもしれないけれど、彼らはそう思ってる。
心から僕らを愛してくれてる。心から信用してくれている。
だから、よーく触って、よーく観察して、いつもいつも心に留めてあげて。
僕らがなんとかしなけりゃ、彼らは自分ではどうすることもできないんだから。

彼らは命がけで僕らを信用してくれてるんだから。
それに答えてあげてください。
posted by もとき at 01:15| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2016年12月20日

思い込み

思い込まないこと。
いかにもそれが答えのようにみえることでも、思い込んでしまうのは危険である。
「その可能性はゼロではありません」
私の嫌いな言葉だが、ここではちょっと違う意味で使いたい。

何でそれを考えたのか?
レアかもしれませんが、可能性はゼロではありません。
は?である。

レアな事から説明してどうする。
一番可能性の高い事柄から説明すべきである。
まずもってこれが考えられる。ただし…
大切なことはここからだ。

どういうことかというと…

この可能性が非常に高いと思われる。
ただし、その他の可能性もゼロではないから、頭の隅に入れておいて、どうにも筋書き通りに事が運ばないんであれば、そのレアなケースも考えていかなければならない。

順番はまず可能性の高いものから3つ。
それを説明して、その仮説が合っていれば想定通りに治癒する。
想定を外れた場合、思うような反応が得られない場合…

初めの想定が間違っているのか?
想定の疾患に対する治療の強度が足りないのか?
悩むことになる。

だから、初めにレアなケースをルールアウトしておいて、可能性の高い診断をより正確なものにしていくわけだ。
一番初めに除外診断を行っておき、レアなものは最初に省いてしまう。
この方法だと、まず、時間が無駄にならない。
一番初めにそれを除外しておけば、あとは可能性の高い真実に向かってまっしぐらに向かっていけば良い。
反応が出ないときは、その治療を更に強力なものにしていく。
初めにブレがなければ、途中で迷わずにすむ。

初めに除外しないのならば、少なくとも飼い主に
「まずこの仮説に従って治療をしていく」
「仮説が合っていればこの位でこうなるはずである」
「もし、想定どおりにならなければ、その時点で他の疾患を鑑別していく」
という説明はしておくべきだ。

じゃあ、他の疾患がネガティブだったら?
そう、結局また元に戻って初めの疾患の治療をやり直し。
もうちょっと別の薬を使ってみましょう、という泥沼にはまり込む。

だから、一番初めにストーリーを組み立てる必要がある。
ベテランになれば自然と頭に中にそういったストーリーが自然に湧いてくるものだが、ベテランになるまでは常に基本に忠実に除外診断をしていかなければならない。
ルールアウトを繰り返して真実に近づいていく。

一件回り道のようだが、それが最も確実で、お金と時間のかからない方法である。
もう一度…
「絶対にそうだと思っても、そうだと思い込んではいけない。常にわずかでもいいから疑いの目をもって、本当にそうなのか、一つ一つ確認して進んで行く」そういった慎重さが私たちの仕事には大切だと思っている。
posted by もとき at 03:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2016年12月18日

愛はあるか?

選択に困った時にどうしたらいいか?
自分だったらこうするだろう、というのはある。
でも、他の人だったら違う選択肢を選ぶかもしれない。
一方ではこういう選択肢があるが、他方ではこういう選択肢も間違いではない、というやつだ。

つまるところ正解が無いので、選んだその人が、その結果をどの様に受け止められるか、だろう。
自分で選んだ選択の結果が現在なわけで、それが一番の最高と考えれば、出てきた結果も受け入れられるはず。
もしあの時、違う道を選んでいれば結果はもっと良かったかもしれない。
そう考え出せばきりがない。

入院させた方がいいか、通院で経過をおった方がいいか。
手術した方がいいか、内科で頑張る方がいいか。
そもそも治療する方がいいか、治療しない方がいいか。

私は治療して治すのが仕事なので、当たり前だがどうやって治そうかと考える。
したがって治すという選択肢の中でものを考えるが、違った立場からすれば治さないという選択肢も当然ありうる。
こんな仕事をしておいて言うのもなんだが、そもそも医療という行為自体が間違ってはいないか?

100%治るのならば頑張る価値はある。
特に急性疾患は治る確率が高い。
だが、慢性になってしまったらどうだろう。
「慢性」というのは治りにくい、治らない、という意味だから、永遠に続くことを意味する。
状態が良ければ長く生きながらえることに幸せはあるだろうが、辛い状態であれば不幸せである。

治る治らないを考えず、この治療法が良い、この方法が勧められる、という単純な?話なら悩むこともないが、
臨床の現場ではどうしたらこの家族が幸せになれるか、無限地獄に陥らずに幸せに暮らせるか…
生きている、生存しているという事だけでなく、幸せに生きているか、苦しみなく生きているかが大切だと思う。

「その治療に愛はあるのかい?」
友人の言葉だが、軽そうでいてなかなか意味深い名言だと思う。
posted by もとき at 03:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2016年12月17日

良かれと思って!

良かれと思ってやっていることが、実は相手にとって余計なお世話だったり、チャチャ入れになっていたり、逆にやってもらわない方がよかったりする。
本当に皮肉だと思うが、日常の中でも良く遭遇する。

つい先日も、とあることを決めるのにあたり、担当者がある程度決めて「これでどうでしょう」と言ってきた。
私「う〜ん、ちょっと色がねえ…。こっちの方がいいんじゃない?」
担当「わかりました、それではこっちでやってみます。」

しばらくして、担当が
「そろそろ、これで行こうと思うのですが…」
私「う〜ん、でもこれって結構高いよねえ。もっと安価なのないかな?」
担当「わかりました、それではもうちょっと探してみます」

しばらくして、再び担当
「こんなのはどうでしょうか?」
私「これってちょっと格好悪いねえ。もうちょっとこんなのとか、あんなのとかどうなのかな?」
担当「でもこれだとちょっと値段が高くなるかと思うんですが…」
私「そうだねえ、ちょっといろいろ探してみてくれないかな。やっぱりおしゃれなのがいいよね」
担当「わかりました」

そして担当
「そろそろ決めないと、時間があまりないんですが…」
私「そうそうこの間、あそこの病院でこんなの見てきてねえ。こんなのどうだろう?」
担当「そうですね、それも良いですね。でも…」
私「あのねえ、とりあえずやってみようよ。やってみて修正して、それで駄目ならまた修正すればいいじゃん」
担当「…」

こうやって書き出してみると、なんなんでしょうか私…。
当事者の私は、「その時」は結構一生懸命考えて、あれがいい、これがいいと自分の考えを伝えてるつもりなんですが、こうしてみるとまったく「こまったちゃん」上司です。
自分じゃ分からないんですね。
よかれと思ってやっているんです。

相手からすればたまったもんじゃないですね。
「これいいね!これでやってみよう!」
「いいね!」「すごいね!」
相手を認める言葉…

よかれと思っているけれど、全く相手に取っては良い迷惑。
相手を承認する言葉のひとつもない。
院長たるもの、自分を押さえて相手を認め、スタッフにやりがいを持たせながらその気になってもらい、そこに「面白さ」「楽しさ」を見いだして生き生きと仕事をしてもらいたい、そんな風にいつかは自分もできる日が来るだろう、と反省する出来事でした。

院長道はまだまだ修行のまっただ中です (^_^)
posted by もとき at 00:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2016年12月14日

安心感!

良い動物病院の条件は?
良く雑誌なんかに載っていそうなお題であるが、私の考える条件のひとつに安心感がある。
それも夜間や休日の安心感。

今は「おもてなし」ブームでどこもかしこも「おもてなし」。
ホテルや旅館、それにレストランだったら「おもてなし」は大歓迎。
人の病院でもちょっと気の利いたところだと「おもてなし」といわれる。

医療は究極のサービス業だといわれるので、もちろん動物病院にも「おもてなし」の心は大切だ。
だが、その前に大切なのは「安心感」。
安心無くしておもてなしはあり得ない。

動物たちの具合が悪くなるのは、たいていは夜。
昼間に具合が悪くても、ちょっと様子をみる人は案外多い。
夕方くらいにちょっと良くなったかな、と思っていたら夜中になってまた状況が悪くなる。
このまま朝まで待って大丈夫だろうか?
夜間の電話のほとんどがそんな感じだ。

よその病院で普段見てもらってる患者さんからも、同じような事を聞く。
夜になって心配でいつもの病院に電話したがつながらない。
仕方なく、ネットで夜間やっている病院を探してやってきた。

夜間でもとりあえず連絡がつくのはすごく安心だと思う。
それも、普段かかりつけの病院に連絡がつくのが理想的だと思う。
病院によっては夜間救急専門の相談所と契約して、診療後はそちらに自動転送するところもある。

私は、自分が飼い主だったらどんな病院にかかりたいか、といつも考えてきた。
自分だったら、自分のペットの具合が悪くなったらいつもの病院で診てもらいたい。
だから、りんごの樹は夜間も対応している。それも一年中休み無く。

いつもの病院でないと、分からないことはとても多い。
いつもはどんな様子なのか。
持病があれば、どんな病気で今何の薬を飲んでいるのか。
今まで同じような症状があったのか。
昼間に、例えばワクチンを打ったんであれば、何の種類のワクチンを何時頃打ったのか。
いつもの体重はどのくらいで、例えば血液検査をしたとしても、いつもはどのくらいの数値なのか。
などなど。

ここには書ききれないほどの情報がカルテには記載されてる。
いつも診てくれてる先生が不在でも、カルテの情報があれば対処は可能だ。
だから、いつもの病院が開いている、連絡がつく事が大切だ。

りんごの樹では当番の先生達が夜の12時まで待機しててくれる。
病院で待機してたり、自宅で待機してたり。
連絡があればだいたい30分くらいで病院に駆けつけてくれる。
夜の12時以降と日曜の夜間は私が診ている。
私が出張で不在の時は、勤務医の先生が交代で病院を守ってくれている。

矛盾しているようだが、残念ながらりんごの樹は「24時間救急対応」を約束していない。
できるだけいつでも休み無く診ようとはしているが、私も不眠不休で生きられるわけではないので、夜は寝なくてはいけない。しっかり寝て、翌日の診察に備えなくてはいけない。
完全に寝入ってて電話に気がつかないことも、申し訳ないけれど時々ある。
枕元に電話を置いていても、気がつかないくらい疲れ果ててることもある。
だから、24時間救急対応は約束できない。

ということで、勝手を言って申し訳ないが、ペットの調子が悪かったらできるだけ夜12時までには、なるべく早めに連絡して欲しい。
また、日曜とお盆、年末年始はできるだけ診療時間中に連絡して欲しい。
それでも、どうしても真夜中に具合が悪くなることも生きてる限りあると思う。
そんなときは、私が責任をもって、できる限り診させて頂く。

夜間に連絡がつく安心、年中無休で休み無く「ペットの健康と飼い主様の安心」を守りたいと本気で思っている。
りんごの樹に任していれば、いつ何があっても絶対に大丈夫!
皆さんからそう思って頂ければ本望である。

IMG_1757.jpg

医療技術の安心感ももちろん大切。先日も人の学会で最先端の医療技術を学んできました!
posted by もとき at 02:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記